- 2026-6-29
- コラム
- 日中友好? あぁ、中華民国となら喜んで。蒋介石もヘタレだと思ってたけど、戦後に中共と戦いながら日本の引き上げ船通してくれたと知り、ちょっとだけ見直したよ はコメントを受け付けていません

ども、のすたる爺です。
明後日に中華人民共和国で施行される「民族団結進歩促進法」を前に取り急ぎ台湾上げの投稿を。まあ、施行後もやめるつもりはありませんが、一応区切りとしてですね。
米中首脳会談で中共が台湾問題の主張と高市批判をするも、煙に巻かれる

直近の米中首脳会談は、2026年5月14日〜15日にかけて北京で開催されました。アメリカのトランプ大統領と中国の習近平国家主席が直接対面し、両国関係を「建設的な戦略的安定」と位置付けることで一致しましたが、台湾や関税などの懸案事項では具体的な譲歩に至らず、成果は限定的なものとなりました。
頼 清徳(らい せいとく)中華民国総統率いる民主進歩党を支持します
建国の父「孫文」が掲げられてはいますが国民党が親中化した今、蔡英文前総統から頼清徳総統と繋がる民主進歩党を支持します。いくら米国を始めとする他国が支援しようにも、国内から攻められたら手が出せませんので、民進党政権の頑張りに期待します、


台湾で大規模灌漑(かんがい)事業を成し遂げ、農業基盤を育てた八田與一

歴史から消された台湾の英雄、根本博(ねもと ひろし)陸軍中将
根本 博(ねもと ひろし、1891年(明治24年)6月6日 – 1966年(昭和41年)5月24日、中国名:林保源)は、日本の陸軍軍人及び中華民国の陸軍軍人。最終階級は共に陸軍中将。栄典は勲一等・功三級。陸士23期。陸大34期。
終戦時に内モンゴル(当時は蒙古聯合自治政府)に駐屯していた駐蒙軍司令官として、終戦後もなお進攻を続けるソビエト軍と抗戦、その間に蒙古聯合自治政府内の張家口付近に滞在していた在留邦人4万人は脱出を果たした。
復員後の1949年には、中華民国領台湾へ渡り、福建省の金門島における古寧頭戦役に参加、彼の献策が中国人民解放軍の撃破に貢献したという。中華人民共和国政府は台湾奪取による統一を断念せざるを得なくなり、今日に至る中華民国の存立が決定的となった。
陸軍中将で終戦を満州で迎えた根本中将が、軍の武装解除に応じず居留民4万人を脱出させ、一年足らずで将兵の引き上げを達成できたのか、そして何故台湾の英雄になったのかをお伝えします。

ソ連侵攻に対して、居留民を守るため終戦後も抗戦
1945年(昭和20年)8月9日のソ連軍の満州侵攻には、同月10日モンゴル人民共和国(当時)も日本に対して宣戦布告して参戦、ソ連・外蒙の両軍が内蒙古地区に進攻してくる事態となりました。両軍の進攻は8月15日の日本降伏後も止まらず、同地域の日本人居留民4万人の安危が懸念されました。
ソ連軍への抗戦は罪に問われる可能性もありましたが、生長の家を信仰していた根本は『生命の実相』よりそのような形式にとらわれる必要はないと考え、罪を問われた際は一切の責任を負って自分が腹を切れば済む事だと覚悟を決めました。根本は「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅すべし。これに対する責任は一切司令官が負う」と、日本軍守備隊に対して命令を下しました。
途中幾度と停戦交渉を試みますが、ソ連軍は武装放棄と進駐に応じることを求め、交渉はいずれも決裂しました。攻撃を続けるソビエト軍に対し、何度も突撃攻撃を繰り返しソ連軍の攻撃を食い止めながらすさまじい白兵戦を繰り広げた。更に八路軍(人民解放軍の前身)からの攻撃にも必死に耐え、居留民4万人を乗せた列車と線路を守り抜きました。一方、根本は居留民移送の裏で中国国民党軍の傅作義と連絡をとっていました。
居留民移送が終わるまで、なおもソ連軍と抗戦
8月19日から始まったソ連軍との戦闘はおよそ三日三晩続いたものの、日本軍の必死の反撃にソ連軍の進軍は停滞、日本軍は8月21日以降撤退を開始、最後の部隊が27日に万里の長城へ帰着しました。出迎えた駐蒙軍参謀長松永留雄少将は「落涙止まらず、慰謝の念をも述ぶるに能わず」と記しています。なお、駐蒙軍が属する北支那方面軍に事実上の完全降伏ともいうべき(ソ連側への)武装引渡を認める大陸指2557号が大本営から正式に出たのは24日のことでした。一方、20日に内蒙古を脱出した4万人の日本人は、三日三晩掛けて天津へ脱出しました。その後も引揚船に乗るまで日本軍や政府関係者は彼らの食料や衣服の提供に尽力しました。
引揚の際、駐蒙軍の野戦鉄道司令部は、引き揚げ列車への食料供給に苦心していたとされます。8月17日頃から、軍の倉庫にあった米や乾パンを先に、沿線の各駅にトラックで大量に輸送させていました。
一方、満州では関東軍が8月10日、居留民の緊急輸送を計画しましたが、居留民会が短時間での出発は大混乱を招く為に不可能と反対し、11日になってもほとんど誰も新京駅に現れず、結局、軍人家族のみを第一列車に乗せざるを得ませんでした。これが居留民の悲劇を呼んだと言われています。また山西省では一部の日本軍と在留邦人が残留し戦後問題になりました(中国山西省日本軍残留問題)。
尚、前任の下村定陸軍大将が最後の陸軍大臣になった事を受けて、8月19日に北支那方面軍司令官を根本が兼任しています。
内地への引き揚げに際して
1946年(昭和21年)8月、根本は最高責任者として、在留日本人の内地帰還と北支那方面の35万将兵の復員を終わらせ、最後の船で帰国しました。
終戦時、中国大陸には日本の軍人・軍属と一般市民が合わせて600万人いましたが、蔣介石は日本軍の引き揚げに協力的で、本来ならば自国の軍隊の輸送を最優先させねばならない鉄道路線を可能な限り日本軍及び日本人居留民の輸送に割り当てました。その裏で日本軍の降伏調印式と武装解除に中国側は数名の将官が来ただけという珍事もありました。
ソ連軍の占領下になった満州や、山西省でのケースを除くと、日本側は最低でも10年はかかると予測していた中国大陸からの引き揚げをわずか10ヶ月で完了しました。
衆議院議員の大久保伝蔵は引き揚げの受け入れ港の視察で南方や満州、朝鮮からの引揚者が裸同然だったのに対して中国本土からの引揚者はそのようなことがなく、手荷物を持っていたことに驚いています。
中華民国統治下の台湾へ
蒋介石の恩に報いるため、中華民国統治下の台湾へ
復員後、東京の鶴川村(現在の町田市能ヶ谷)の自宅へ戻ります。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けました。中国情勢における国民党の敗北が決定的となり、1949年(昭和24年)1月に蔣介石が総統を辞任すると、蔣介石に対する恩義(4万人の在留邦人と35万将兵の帰還への便宜供与、国体護持)から、根本は私財を売却して台湾への渡航費用を工面しようとします。そこに、元上海の貿易商であった明石元長及び「東亜修好会」からの要請があり、台湾への密航を決意します。
同年6月26日、家族に「釣りに行ってくる」とだけ言い残し、通訳の吉村是二とともに宮崎県延岡市の沿岸から台湾へ密航。7月10日に基隆に到着するが、密航者として投獄されてしまいます。しかし、根本投獄の報告がかつて交流のあった国府軍上層部(彭孟緝中将、鈕先銘中将)に伝わるや否や待遇が一変し、8月1日に台北へ移動します。北投温泉での静養を経て、8月中旬、湯恩伯の仲介で蔣介石と面会しました。同時期8月5日にアメリカが国民党政府への軍事支援打ち切りを表明しており、孤立無援の状態にあった蔣介石は根本の協力を受け入れました。
帝国陸軍仕込みの島嶼防衛が際立つ。金門島決戦
根本らは8月18日に台湾から厦門へ渡ります。中国名「林保源」として湯恩伯の第5軍管区司令官顧問、中将に任命されました。湯恩伯は根本を「顧問閣下」と呼び礼遇されました。根本は湯恩伯に対し、厦門を放棄し、金門島を拠点とすることを提案します。これを基に防衛計画が立案され、根本は直接指導に当たちました。
同年10月1日、北京では中国共産党による中華人民共和国が成立。ほどなく国府軍は厦門を失陥。金門島での決戦が迫る中、根本は塹壕戦の指導を行います。そして10月24日、金門島における古寧頭戦役に参加、金門島に集まった中華人民共和国の輸送船・補給船を国府軍が根本の策で焼き払ったことにより、中華人民共和国側は台湾上陸のための海運力に打撃を受け、また、上陸してきた中国人民解放軍の撃破にも成功、国府軍は同島を死守しました。
10月30日、湯恩伯は「林保源」を含む部下たちとともに台北に凱旋します。根本らの帰国後も、この島を巡って激戦(金門砲戦)が展開されましたが、台湾側は人民解放軍の攻撃を防ぎ、現在に至る台湾の存立が確定しました。
その後、根本の帰国に先立ち、蔣介石は感謝の品として、イギリス王室と日本の皇室に贈ったものと同じ花瓶を根本に渡しています。本来一対であるべき花瓶の片方は今日も中正紀念堂に展示されています。なお、根本は帰国時に、姿を消した際と辻褄が合うよう、わざと釣り竿を片手にしていたといいます。
ラバウルで奮闘した台南空(台南海軍航空隊)
台南海軍航空隊(たいなんかいぐんこうくうたい)は、日本海軍の地上航空部隊。1941年10月1日に開設され、1942年(昭和17年)11月1日に第二五一海軍航空隊(だい251かいぐんこうくうたい)と改称した初代、および1943年4月1日開設の二代目があります。
1942年4月1日、第二十五航空戦隊が新編されます。二十五航戦は編制上、第十一航空艦隊所属だが、連合艦隊は軍隊区分で南洋部隊に配属され、二十四航戦に代わりラバウル方面で西方空襲部隊任務を引き継きました。二十五航戦には台南空、四空、横浜空が編入されました。

エース揃いのラバウル航空隊も、次第に擦り潰されていく
当時のラバウルの状況は、台南航空隊と第二航空隊が敵を圧倒する戦果を上げていましたが、8月7日よりガダルカナル島攻防戦が始まると、ラバウルの戦闘機隊は連日、片道560浬(往復2100キロ)の過酷な長距離進攻を強いられ、先任搭乗員の酒井三郎一飛曹が重傷を負い、また笹井醇一中尉、高塚寅一飛曹長、羽藤一志二飛曹らのエースが次々と命を落としていたのです。
昭和kids的には。「大空のサムライ」を子供用にまとめたムック本などでゼロ戦の活躍を描いた戦記物、軍記物に心躍らせましたが、80s末から社会の空気が代わり「自虐史観」と特亜への配慮から次第に戦争賛美と一括りにされ、こういった話が半ばタブー視されるようになってしまいました。
日台親善を推進した安倍晋三元首相の銅像も
台湾南部の高雄市にある廟(びょう)「紅毛港保安堂」に、日台親善を推進した安倍晋三元首相の功績をたたえ、等身大の銅像が建てられ、2022年9月24日に除幕式を行われました。
同廟は、先の戦争でバシー海峡に沈んだ旧日本海軍の第38号哨戒艇をまつっていることで知られ、台湾南部在住の日本人や知日派が訪れています。
廟は、安倍氏が亡くなられた翌日の2022年7月9日に追悼会場を設置。その後、有志から寄付を募り、銅像を作り始められました。
銅像の高さは175センチ。台座に「台湾永遠的朋友」(台湾の永遠の友人)と書かれています。廟の責任者、張吉雄氏は産経新聞の取材に「台湾の国際組織加盟への支持など、いろいろと尽力してくれた安倍さんのことを私たちは忘れない。この銅像を日台友好のシンボルとして後世に残したい」と話しています。


メンヘラでゲーム業界引退に追い込まれた“しくじりゲームクリエイター”です。現在は障害者雇用農園で農作業に邁進中。玩具、ボードゲームの愛好家。老後に同好のでも集まったら、常設のボードゲームスペースでも開きたいとも思ってます。









