82年前の今日6月6日は、連合国軍の対ドイツ反撃作戦、史上最大の作戦こと「D-DAY:ノルマンディー上陸作戦」が開始された日

  • 2026-6-6
  • 82年前の今日6月6日は、連合国軍の対ドイツ反撃作戦、史上最大の作戦こと「D-DAY:ノルマンディー上陸作戦」が開始された日 はコメントを受け付けていません

ども、のすたる爺です。

「D-Day(ディーデイ)」とは、軍事用語で作戦決行日を意味します。特に、第二次世界大戦において連合軍がナチス・ドイツ占領下のヨーロッパへ侵攻した、1944年6月6日の史上最大の作戦「ノルマンディー上陸作戦」を指すことで最もよく知られています。東部戦線でソ連に押し返されていたドイツは、同盟国のイタリアを落とされ、西部戦線の最前線であるフランスへの連合軍の進行に備えていましたが、建設中だったブンカーとトーチカによる防衛拠点「大西洋の壁」の裏をかかれ、ノルマンディーへの上陸を許し敗戦への道を転がり落ちることになります。

大西洋の壁

1943年11月にエウヴィン・ロンメルはB軍集団とともに北フランスに移動を命じられ、ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥率いるドイツ西方総軍の指揮下に入りました。ドイツ軍は連合軍の次の侵攻地を突き止めるのに躍起となっていましたが、ヒトラーは北フランスへの連合軍の上陸を恐れており、信頼していたロンメルをかの地に置いたのでした。

さらにヒトラーは「要塞をつくることにかけては、古今を通じ、私ほど偉大なものはない」と自信満々であったため、肝入りだった「大西洋の壁」の整備を監督させるため、「進攻正面防備特務査察監」という新たな役職まで作ってロンメルをその役職に任じました。イタリアで落胆したロンメルではあちましたが、任務の重要性とヒトラーからの信頼を痛感して、着任するなりデンマークからフランスまで精力的に視察して回りました。

1944年1月になって、ドイツ軍は連合軍が西ヨーロッパで「第2戦線」を構築するため大規模な上陸作戦を展開するという情報を掴んでおり、2月にはその場所がヒトラーの懸念通り、北フランスになるという情報を掴んでいました。連合軍の上陸地点としては、ドイツ軍はイギリスからもっとも至近距離となるパ・ド・カレーと予想していました。

ロンメルはドイツ軍の殆どの予想とは異なって、上陸地点はノルマンディーになると唯一正しい予想をしていたという意見もありますが、それは後年のロンメル神話の一つであり持ち上げすぎではないでしょうか? 少なくともロンメルが気づくのはもう少し後だっと思います。

ロンメルは1943年12月23日付の報告書において「敵はまず第一にパ・ド・カレーを目指す」と書いていたり、連合軍上陸直前の1944年5月半ばには、指揮下の機甲師団の2個師団をパ・ド・カレーにより近いセーヌ川の北部に配置するなど、他のドイツ軍司令官らと同様に、連合軍の上陸地点をパ・ド・カレーと予想して作戦準備を進めていた。

一方で、連合軍の上陸に対抗する「大西洋の壁」の整備状況としては、上陸が予想されていたカレー方面ですら工事の進捗具合は80%、ノルマンディー地方に至っては20%という悲惨な状況であり,とても難攻不落とは言い難い状態でした。ロンメルは準備の遅れに危機感を抱きつつも、精力的に活動し、未完成の「大西洋の壁」を少しでも完成に近づけるために全力を傾注しました。

ロンメルは「大西洋の壁」の整備と並行して、防衛計画の策定も進めていた。ロンメルは連合軍の侵攻を防ぐ方法はただ一つ「敵がまだ海の中にいて、泥の中でもがきながら、陸に達しようとしているとき」「上陸作戦の最初の24時間は決定的なものになるだろう、この日のいかんによってドイツの運命は決する。この日こそは、連合軍にとっても、我々にとっても最も長い一日(Der längste Tag)になる」、として「水際配置・水際撃滅」を主張しました。

これはロンメルが北アフリカで連合軍の圧倒的な航空戦力で叩かれた苦い経験に基づくもので、連合軍空軍の制空権下では、装甲部隊が戦線にたどり着くためには、小部隊に分散且つ時間をかけて移動する必要があり、反撃の機を逸してしまうため、海岸付近に歩兵、砲兵、装甲部隊全ての兵力を配置し、上陸部隊を速やかに撃滅するべきと考えたからです。

しかし、連合軍の大規模上陸作戦においては、必ず戦艦や重巡洋艦などの大口径の艦砲による艦砲射撃が行われており、その射程内に配置されている陣地や部隊は大きな損害を被っていた。ロンメルは連合軍の大規模な艦砲射撃を経験しておらず、明らかにその威力を軽視していたと思われますが、実際には連合軍の上陸を撃破することは困難と認識しており、一縷のむなしい望みにかけたという意見もあります。

1943年3月に西方総軍司令官に任命されたルントシュテットも、「大西洋の壁」などと喧伝されている陣地の構築状況が遅々として進んでおらず、これに頼らない作戦を検討する必要に迫られていました。そこで機甲部隊の運用の専門家でもあったルントシュテットは陣地に頼るのではなく、装甲部隊に重点を置くこととしました。しかし、最前線地区に配備してしまえば、上陸前の連合軍の圧倒的な航空攻撃と艦砲射撃で連合軍部隊が上陸前に大損害を被る懸念が大きかったため、ルントシュテットは装甲部隊をその射程の外に配置し、海岸陣地の歩兵を上陸部隊が押しとどめている間に、装甲部隊が海岸付近に駆けつけて、艦砲の射程外でまだ体制が整わない上陸部隊を一気に叩く作戦を考えました。これは、ルントシュテットがハスキー作戦やアヴァランチ作戦で、連合軍の圧倒的な艦砲射撃に大損害を被った戦訓に基づくものであり、ドイツ国防軍きってのアメリカ・イギリス通と言われたレオ・ガイヤー・フォン・シュヴェッペンブルク大将も賛同しました。

ロンメルはルントシュテットを尊敬し立ててはいましたが、一方のルントシュテットは、ロンメルの勇気と忠節ぶりには敬意を払っていたものの、戦略家としての評価は決して高くはなく「良き師団長になるための特性は全て備えているがそれ以上ではない」と評していた。またヒトラーの信頼でのし上がってきたナチの成り上がりものという見方もしており、作戦の全てを握られることに警戒を強めていました。

ロンメルとルントシュテットの意見の相違は、やがてドイツ軍を二分するような「装甲部隊論争」に拡大したが、最終的にヒトラーが問題解決に介入し、機甲4個師団を予備部隊とし国防軍最高司令部の指揮下におくこととした。この4個師団は国防軍最高司令部の許可なしでは動けないこととなり、結局のところ、ロンメルとルントシュテットは自分たちの対立によって余計な手枷足枷を付けることとなってしまった。

遅きに失したロンメル

こうした将軍同士の対立の中で準備が進められましたが、ロンメルは準備を進めていく中で次第に連合軍はノルマンディに上陸する公算が大きいと考えるようになりました。これにはイタリアでの経験が影響しているとも言われます。

そのため、ノルマンディーへの視察の頻度を上げたロンメルは、のちに「オマハ・ビーチ」と呼ばれる海岸の防備の強化を命じ、鹵獲したフランス軍の戦車砲をトーチカに設置し海岸砲台とするなど徹底した強化が図られたため、ロンメルが北アフリカで苦戦させられたイギリス軍の拠点に因んで「トブルク」と名付けられました。またロンメルは、自分でデザインしたロンメルのアスパラガスを空挺部隊の落下が予想される地域に設置したり、大量の地雷の埋設も命じ、一説にはその数600万個にも達したと言われますが、実際には地雷の数も足りておらず、ロンメルを満足させるためやむなくダミーの地雷が埋設されました。

ロンメルを誤魔化す目的で作られたダミー地雷原は、皮肉にも上陸してきた連合軍を混乱させるという予想外の効果もあげています。ロンメルが軍の実情を考慮せずに下した命令によって、ドイツ軍将兵は防備を固めることに多くの時間を取られることとなり、訓練をする時間が殆どありませんでした。また、演習用の弾薬も不足しており、訓練度が少ないまま連合軍を迎え撃つこととなってしまったので、火器の命中率の低さに悩まされることとなりました。

ノルマンディーでの敗北

ロンメルの精力的な準備にも拘らず1944年6月時点ではまだ防備は不十分でした。しかし、ドイツ軍の気象班は6月上旬は天候が悪化するため、6月10日までは連合軍の侵攻はないと判断していた。気象班の報告を信じたロンメルは、不覚にも妻の誕生日を祝うためにドイツ本国に帰国することとしました。しかしロンメルらが信じたドイツの気象予報は、グリーンランドの観測所が連合軍に破壊されていたため精度に欠けていました。気象班の報告を信じたドイツ空軍は、6月に入ってから1回も空中哨戒を行っておらず、盲目も同然であったが、そのドイツ軍の油断をついて、D-Dayこと6月6日、連合軍のノルマンディー上陸作戦が敢行された。

これらロンメルを始めとするドイツ軍の失策によって、連合軍の作戦は完全な奇襲になってしまい、易々と上陸を許すこととなった。そして、海岸線の防備については、ロンメルとルントシュテットの対立もあって結果的にどっちつかずとなり、オマハ・ビーチを除いて殆ど満足な抗戦すらできませんでした。また、数少なかったドイツ軍機甲部隊による反撃のチャンスも、連合軍空挺部隊による欺瞞作戦にはまってその機会を失ってしまったため、満足な反撃ができなかった。ロンメルは、午前10時15分に連合軍上陸の一報を妻の誕生日を祝うため帰宅していたドイツのヘルリンゲンの自宅で受け取りましたが、そのとき「私はどうかしていた。大馬鹿者だ」と嘆いたといいます。

ロンメルは慌ててヒトラーとの会見をキャンセルし、ラ・ロシュ=ギヨン(英語版)にある司令部に向かった。前線では第21装甲師団(英語版)が反撃のために集結し増援を待っていたが、午後5時前にロンメルから軍参謀長ハンス・シュパイデル中将に連絡が入り、シュパイデルが連合軍の主作戦地がノルマンディーとはまだ確定できないこと、第21装甲師団は増援を待って反撃に転じるとの報告を行うと、ロンメルはそれを一喝し、直ちに第21装甲師団単独で反撃を行うよう命じた。ロンメルの命令に従って、同師団の第22戦車連隊は、第192装甲擲弾兵連隊第1大隊と協同で連合軍が上陸した海岸に向け突進したが、途中でイギリス軍第27機甲旅団と激突し、一方的にIV号戦車19輌を撃破されて撃退された。

司令部に到着したロンメルは、戦況報告を聞き、上陸したイギリス軍を率いているのが仇敵モントゴメリーであることを知ると、副官のランク大尉に「親愛なる敵モントゴメリーか・・・」と苦々し気につぶやきました。その後も旺盛な攻撃意欲で指揮下の装甲師団に反撃を命じ続けましたが、制空権もなく激しい艦砲射撃の中で兵力の集結もままならず、損害を出し続けた。戦略予備として留め置かれていた装甲教導師団もようやく前線に到着しましたが、空襲下の移動で装甲車輌85輌、戦車5輌、トラック123台(うち燃料車80台)が撃破される大損害を被っており、ロンメルは北アフリカで味わった制空権を失った装甲部隊の悲劇を、再びノルマンディーで味わうこととなりました。

ドイツ軍は連合軍の攻撃機をヤーボ(Jabo)と呼んで恐れましたが、ロンメルも幾度となくヤーボに襲われ、6月10日に西部方面戦車軍司令部に車で向かったロンメルは到着までに30回もヤーボに襲われ、そのたびに車を捨てて腹ばいになってヤーボをやり過ごしたので、司令部に到着したときには泥まみれでした。圧倒的物量で押し寄せる連合軍を見て、ロンメルは敗北を悟って副官ランクに以下のようにつぶやきました、

もしわたしが連合国軍を指揮していれば、2週間で戦争を終わらしてしまえるところだな。—エルヴィン・ロンメル

駿河屋フィギュア

関連記事

コメントは利用できません。

ウルトラマンストア
ページ上部へ戻る